ままゼロブログ

人生に退屈しているときにたまに書いている趣味のブログです。

「寛容」とは何か、それはたぶん「多幸感」

中学2年生の時、私は初めて「寛容」というものを認識したと思います。以来、私はあの「寛容」を大人の証として目指し続けています。

 

断片的にしか記憶がないので思い出しながら書きます。

河原でカップルに「寛容」を教えてもらった思い出

よく晴れた春の日、私は他クラスのKくんと、河原の土手を2人で歩いていました。

 

その時の心境は「あーやばいなにこの状況」「楽しい」「俺たちってなんて面白いんだろう!」「いや、まいった。。。なぜこんな恥ずかしいことに」みたいな色んな自意識がない混ぜになった、中2病特有の未熟さに溢れていたと思います。こう見えて私はとてもピュアだったので。

 

その手にはみかんを握っていました。

 

確か1時間前のじゃんけん大会で私とKくんが負けて、罰ゲームを課せられていたのです。生徒会のボランティア活動で、ゴミ拾いのために河原に集められた30人くらいの次期役員たちでレクリエーションをし、ただジャンケンやってもつまらないから罰ゲームでもしようという話になったように記憶しています。

 

ゴミ拾いをしているあいだに目撃した皆の情報によりますと、そこから10mほど先の橋の下に、シートに座ってずっとイチャイチャしている二人の男女がおりますようで。

 

なんにもない田舎の川原で、土手の橋の下で早朝に、シートだけ敷いてイチャイチャしているなんて珍しいと、話題になりまして。どのくらいイチャイチャしていたかというと、男はバックハグから女の腰に手を回し、男の広げた脚の中で女は長いスカートを抱えて座り、密着して二人語らい合っている状態。遠目から見てもシート以外には弁当やアウトドアグッズもなにもなく、川のせせらぎだけが二人を見守っている。

 

大人の皆さんならこのシチュエーションだけであらぬ想像をなさることだろうと思います。

 

しかし中学生の私たちにはただのアツアツのカップルに見えてしまっています。っていうか少なくとも私は、遠目でみても草むらに阻まれてて詳細はよく見えないし、とにかくイチャイチャしているカップルがいるようだという認識でおりました。

 

いや、思春期だもの、30人もいたのならなにかしら勘ぐっていた奴らもいたのかもしれません。むしろそういう奴らが編み出した罰ゲームだったのかもしれません。「そのカップルにみかんを手渡して食べてもらう。」という提案が支持を集めて罰ゲームの主旨となりました。

 

ヤベエ。今になって私にもようやくどういう主旨の罰ゲームだったのか理解できました。どんな様子なのか観察してこい、ということなのです。あああ。知らなかった。なぜ今さら気づいたんだ。そういうことだったのか。バカな中学生男子にはめられて辱めを受けるとこだったわ。でも当時の私はとてもピュア(という名の空気読めない女)だったので余計なことは一切せず、ただただ河原でいい感じになってるカップルの雰囲気を壊さず、いかにスムーズにみかんの贈呈を申し出るかという愚行にだけ頭を悩ませていました。

 

なお一緒に行ったKくんは、この件ではいっさいなんの当てにもならないであろうことだけはよくわかっていました。

Kくんは、本当にたまたまなのですが、私と同じ委員会の長・副委員長同士、つまりパートナーだったのです。引継ぎ活動の3ヶ月ほどだけでも、とにかく何も有益な働きをしない男だ、ということだけはよくわかっていました。そんなトップオブザ天然の二人がたまたまジャンケンに負け、罰ゲームに選ばれたのです。そりゃみんな盛り上がっただろうね。

彼は私以上に天然で全然空気読まないし、でもイケメンでモテるしかもバスケ部員で、とにかくこのシチュエーションではプラス要素しかない愛されキャラの男でした。この罰ゲーム、我々はネタになる要素しかありません。あああ。彼はたぶんなにも気づいていなかった。私もうん十年の時を経て今さら要旨に気づいた大バカ者。めちゃくちゃ期待されていたにちがいない。あああ。

 

案の定、なにも語らずにただ歩いてついてくるKくん。そして斜め上に妄想して対策を思案する私。現場までは10mもあるのだからとにかく長い。私たちはただ「どうしよう」「やべー」などと各自でぼやきながら虚無の10mを歩きました。

 

それでもなぜ断らなかったのか?といえばやはり私たちも「楽しかった」のだと思います。中学生特有の「俺たちって面白いだろう?」「こんなことやってる俺たちすごいぜ」的な自意識過剰が働いていたように思います。あああ。なにがスゴイのか今の私には一切わからない。バカだ。中2病だ。

 

そうこうしているうちに永遠のように感じられた10mを歩ききり、当該のカップルのもとにたどり着きました。直視することもできず(←思春期)私は10mの間に思案した可能な限り最も自然な言い回しで口火を切りました。

 

「あのー…みかん余ってるんで、食べませんか?私たち、みんなで分けあったんだけど、どうしても2つだけ余ったので」

 

ムリあるううううう!状況的にムリあるうううう!30人もいるんだからむしろジャンケンでそれもらう奴を決めろよおお!

 

幸い、二人はなにもヤッてなかった。いや、なにもヤッてないってなんだよ!?失礼じゃないか!?美しい二人だけの時を過ごしていたんじゃないか?まあ、とにかくパッとみで服は乱れていなかった。意外となにも語ってもおらず、ただただ二人でくっついて座りながらせせらぎの音を聞いているだけのようでした。いや、私が無知だったので都合よく記憶補正されているだけなのかもしれないけど(色んな意味で良かったね)

 

そしてふたりはとくべつ驚くでもなく困った風でもなくいたって穏やかな雰囲気で私たちをじっと見つめ返してきました。

 

・・・困った。

 

泣 き た い!

 

めちゃくちゃ汗かきました。そんな私の焦りを察してか無視してか、空気をよなまい天然Kくんはめちゃくちゃ無邪気にみかんを差し出してゴリ押ししたのです

 

「みかん、どうッスか〜〜〜?」

 

カップルは思わず笑い、男性の方がとても穏やかな声で優しく語りかけてくれました。

「…うん、ふふふ、僕たちはいいよ。君たちみんなで食べてね」

 

バカにするでもなく、突き返すでもなく、流れる川からスッと水をすくい上げるような優しさで、そう、私たちを軽くあしらったのです!

 

たぶん、中学生の幼い好奇心も、大人を試してバカにするような思考回路も、後先考えずに悪ふざけに興じる未熟さも、全てお見通しのうえでの「君たちみんなで食べてね」だったのでしょうね。

f:id:kurataikutu:20210502190935j:plain

これがいわゆる「寛容」である。

 

 

 

 

 

ーと当時の私は思いました。でも今これ書いてて思い直しました。中学生の頃のピュアな私はずっとこういう↑概念で捉えていたのですが、大人になった私が捉え直すと実際はこうですよね↓

f:id:kurataikutu:20210502191024j:plain


 

 

これがいわゆる「寛容」である。

 

私とKくんは「いい人で良かったね」とか言い合いながらみんなのもとへ戻り、ことのあらましを報告しました。その対応は愚かな中学生たちの好奇心を大いに失望させ「なんだよそれ」「優しい」「ステキすぎる」「みかんはちゃんとあげてこいよ」と各自が狼狽したのであります。

カップルの「多幸感」の圧勝である。

おわります。

つまり「寛容」とは「多幸感」なのだとその時私は悟りました。

以来、ああいう「寛容」さが大人の証だと信じて生きてきたが、それってどうなのよ。

ただのマウント勝ちじゃね?

これと同じことを不幸な状況にある人が目指すなら、信念やセックスや信仰や薬やソシャゲによって、不満や不安に蓋をした「多幸感」ならいくらでも得ることができます。一瞬の刹那で終わると悲劇を生む「多幸感」も、それら方法論によって持続可能な「充足感」を目指せすことは可能で、より自然な「寛容」世界に迎合することも可能なのかもしれない。

でもなんかそれって、ディストピアっぽくね?

blog.tinect.jp

 

昨今「不寛容の時代」と呼ばれるけど、どんな人間にも「不安」や「不満」や「不幸」はあってさ、それら「不寛容」を自由に表現できている今の時代はむしろ自然で望ましい状態なのかもしれない。今ってもはや「不寛容」への「寛容」時代なのかもしれない、とかちょっと思いました。もちろん限度や抑止は必要で、そういう異論は認めますが。全然不満がないのはやばいよって話。

おわります。

 

関連記事【中2病日記】

www.mamazero.com 1年目

www.mamazero.com 2年目

www.mamazero.com 3年目

www.mamazero.com  4年目