「ソーシャルディスタンス」なるものが提案されてはや3、4ヶ月がすぎさろうとしています。みなさまにおかれましてはいささかは慣れましたでしょうか。
日本語訳では「社会距離拡大戦略」とかいうそうな。なんだかヤシマ作戦に通ずる仰々しさを感じますね。実際の意味としては
人と人との間に物理的な距離を取ることによって人が互いに密接な接触を行う機会を減少させる方策のことであり、典型的には他者から一定の距離を保つこと(どの距離が適切かは、時と場合によって、また国によって異なることがある)や、大きなグループでの集まりを避けることを含む。
ほどのことらしくて、思ってたより大したことなくて拍子抜けしました。なんで「ソーシャル」ってつけたの?そういう話なら「フィジカルディスタンス」とか言っといて欲しかったですよね。
「ソーシャルディスタンスをとりましょう」とかちょっと聞きかじっただけでは、物理的な意味じゃなく「他人とは社会的に適切な距離感を保ちましょう」という心理的意味合いだと思うじゃないですか。
いや、もう私くらいの妄想癖になると「新しい生活様式」とやらも、絆とか義理人情とか相互扶助とか、 これまで重要視されてきた感情的なつながりに囚われない、「新しい社会的距離感を提唱する関係性構築慣習」の啓蒙なのかとまで想像していました。
ひいては「ソーシャルディスタンス」の目指す所とは、個人各々が持つコミュ力の優劣や、出生ガチャと揶揄される(この呼び方とても嫌いですが)美醜や環境の格差にかかわらず、誰にでも平等に「有益なつながり機会」を創出しうるような、「情に依拠しない社会システムの理想郷(ディストピアか?)」なのですよ。
いや全て私の妄想だけどね。
(ついてきてくださいね)
でも考えようによっては、この妄想は的を得ている気もします。人間は心理的な距離感のある相手をパーソナルスペースには入れたがらない生き物ですから、結果的には、「適切な社会心理的距離感を保とう」戦略も、都知事百合子の言うような「密」を避ける成果につながりうるのではないでしょうか?
そんなわけで私が「ソーシャルディスタンス」の字面だけ見て勝手に考えた私なりの「ソーシャルディスタンス」対策を勝手に解説していきたいと思います。
対策1 悪口、愚痴、カネの話や弱音を一切言わない(聖人君子でいること)
「女は悪口で共通の敵を作って仲良くなる」ってよく言うじゃないですか。
あれってたぶん半分だけ当たってて、「人間は情報を共有して共生する生き物」なんだと思うのですよね。
自分の評価を下げる可能性のある批判行為は、それだけで相手に「この人は私に本音を語ってるな」と信用させるに足ります。実は弱音やカネの話や愚痴なども同じことが言えるのですよ。
ホンネの多くは自分の評価を下げたり、余計な印象や情報を周囲に与えかねません。そのリスクを負ってなお情報伝達する行為によって「心を許している」というパフォーマンスになるため、心のディスタンスを一気に取っ払ってしまえるのです。そこでさらに批判や弱みや悪評を秘密情報として共有することによって、同調感情が芽生え、いっそう親密な関係性に進展してしまいます。(もしくは同調感情を強いられます)
普段のコミュニケーションではそういう話を一切しない、おくびにも出さないことこそがソーシャルディスタンスへの第一歩。学問や政治や文化についてのみ話題にし、聖人君子でいることで「何を考えているかわからない」と適度な距離をおかれるよう心がけましょう。
いわゆる「 夜の街」とやらも聖人君子でいるならば行く機会のない場所になりましょうぞ。
対策2 誰にも過去の話をしない(相手の過去も詮索しない)
相手の過去のことを教えてもらうと、なんとなくその人の人間性をちょっと知った気になりませんか?はたまた、何年も会っていなくても、幼なじみにはなんとなく心を許してしまうのは過去の自分を知られているせいではないでしょうか。
過去の情報を共有すると、知った方は相手の理解度を増した気になるし、知られた方も本当の自分を少しわかってもらえているよう錯覚し、互いの心の距離感が近づいてしまうのです。
ソーシャルディスタンスを適切に保つためにも、自分の過去の話は極力秘密にし、相手のこともあれこれ詮索しないでいるべきなのです。天気とか風景とかその場しのぎの即席話だけをするよう心がけましょう。また、過去の出来事を共有している田舎の旧友や家族との再会も、過去話を避けるようになれば必然的に機会が減ることになるでしょう。
対策3 自分の好きなことや趣味を語らない(感情表現を見せない)
共通項が多い人には親近感を覚えやすい、とはよく言いますが、実際には同じ趣味趣向の人なんてそうそう出会える機会もありませんよね。でも、油断してはなりません。趣味が合わなくても「なにが好き」「なにが面白い」を知ることは互いの心の距離感を取っ払う可能性に満ちています。そう、趣味がちがえども「好き」な気持ちには強く共感することがができるから。
なにが好きか、面白いか、を語る時、人はどうしても感情表現が豊かになります。自分の思いを語っているからです。感情はその人の本質的な部分なので、共感するポイントがあればあるほど急速に関係性が親密になります。密です!感情表現を見せたり趣味を共感する場である舞台やライブなんてもってのほか!4密です!!
ソーシャルディスタンスを保つためにも、感情表現は極力しない、特に人の興味をひいて共感を得やすい「好き」とか「面白い」とかそういった自分の感情を見せる場にはなるべく行かないようにすべきです。
対策4 誰とも定期的に会おうとしない(偶発性に頼る)
かの有名な「星の王子さま」に出てくるキツネが「仲良くなる」ためのやり方をこう説明していました。
「最初は、おれからすこしはなれて、こんなふうに、草の中にすわるんだ。おれは、あんたをちょいちょい横目でみる。あんたは、何にも言わない。それも、言葉っていうやつが、勘ちがいのもとだからだよ。一日一日とたってゆくうちにゃ、あんたは、だんだん近いところへきて、すわれるようになるんだ・・・・」 (『星の王子さま』サン=テグジュペリ作、内藤濯訳)
これこそがソーシャルディスタンスじゃなくして何がソーシャルディスタンスでしょう。毎日約束して会っているだけで、心の距離感が近づき、適切なソーシャルディスタンスが保てなくなってしまうのです!会食なんてもってのほか!
人は定期的に会う相手には情が移ります。そして、心の中のガードが自然とゆるんでいきます。これは物理だけではなく、LINEやSNSでも同じことです。逆に長いこと連絡をとらずに、間があいた相手には心情的になんとなく絡みづらくなります。
それは相手のために消費してきた時間や労力、情が地続きにならないため。相手の情報も興味も分断されて細切れになるだけで、なんとなく心は遠のくものなのです。互いの感情を持続させずに心の距離感を保つことこそがソーシャルディスタンスの真髄ではないでしょうか。
だからいつも誰とも定期的に会おうとせずに、気まぐれに自由でいて、たまの偶発性で出くわした相手とだけスポットで交流することを心がけるのが良いでしょう。
対策5 目の前にいる相手に興味を示さない(いない相手に興味を示す)
人は誰しも「誰かの特別な存在になりたい」と潜在的に願っています。そのため、なるべく「自分に興味を持ってくれそうな誰か」と仲良くしようとします。
逆に自分に全く興味がなさそうな相手は「自己存在を否定されて傷つけられそうなリスク」があるため無意識に遠ざけたくなります。
この心理をうまく利用し、興味を示したり、時どき示さないことによってソーシャルディスタンスを適切に保つことができます。物理的距離感の近い相手には極力興味を示しすぎないよう接し、そこにいない人のこと(芸能人の話題など)を話すよう心がけるのです。
とはいえ完全なる無関心でいることは、よっぽど人間的魅力のある者でないと誰からも遠ざけられ、自身を孤立化へと追いやってしまうリスクをもはらんでいます。
リスクヘッジとしてはSNSなど目の前にいない相手に対しては適度に趣味やら悪口やら過去話、下世話な話題を発信し続けること、そして多くの人に興味を示し、示されながらも、適度にブロックやミュートを駆使して適切な距離感を保つことが望ましいでしょう。
おわります
いかがでしたかソーシャルディスタンス。当然といえば当然ですが、心の距離感を保つ戦略は裏を返せば「人との距離感を詰める」ための基本的な方策でもあります。
「人との距離の詰めかた」
→常に聖人君子でいないこと(本音を語りましょう)
→お互いの過去の話をする(自分の黒歴史を語りましょう)
→定期的に会うようにする(会食をしましょう)
→自分の興味趣味について話す(推しを語りましょう)
→目の前にいる相手に興味を示す (基本的な社会人の良識として)
本来であればこちらを解説すべきでしたが、今回あえて裏返しにしてソーシャルディスタンスの解説記事としました。
だってもし、現状のソーシャルディスタンスが続いて人々のパーソナルスペースへの感度が高くなったら、今回まとめたような適切な距離感を保つ「新しい人間関係構築慣習」の方が良識になっていくかもしれないじゃないですか?
もしかしたら、私が冒頭で語ったような「情に依拠しない社会システム」が実現した世界では、今まで当たり前のように重視されてきた馴れ合いや交流慣習も形骸化して、「昭和・平成の古き良きキズナ構築」とか歴史の教科書に載っちゃう尊さになってるかもしれないじゃないですか?
SNSでのつながりや発信が盛んになり、他人叩きやリアル話がコンテンツとして当たり前のように消費されているのを日々見るにつけ、リアルなつながりの方はもうその新しい慣習とやらの入り口に立たされているのかもしれないなと感じるようになりました。
それが理想郷なのかディストピアなのかは私にはわかりませんが。
「きみの住んでるとこの人たちったら、おなじ一つの庭でバラの花を五千も作ってるけど、・・・・・じぶんたちがなにがほしいのか、わからずにいるんだ」
と王子さまが言いました。
「うん、わからずにいる・・・・」
と、僕は答えました。
「だけど探してるものは、たった一つのバラの花のなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなあ・・・・」
「そうだとも」と、ぼくは答えました。
「だけど、目では、なにも見えないよ。心でさがさないとね。」
佐野シリーズ
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www.mamazero.com 実はこんな所にも佐野
梅つま子さんがこの記事を発展させた解釈を書いてくれたよ!!